■運に負かされない人
一ト晩眠っても目覚めた途端に首が凝っている衛澤です御機嫌よう。
ごく最近、転居致しました。
転居前後も最中も、何故かやたらめったら忙しくて……「何故か」ではなくて私の筆が遅いことが原因であることは明白なのですけども(ごにょごにょ)。
遅い筆を駆使して、大挙してやってくる締切を倒さねばなりませんので、転居後も仕事に必要なものと寝食に必要なもの以外の荷解きはほぼしていませんでした。テレビなんて不要不急のものはずっと後まわしです。
そんな訳で、我が家のテレビが箱から出てアンテナに繋がって放送を見ることができるようになったのは、本稿執筆中のただいま開催中であります平昌五輪男子フィギュアスケートで羽生結弦選手が金メダルを獲得した翌日です。入居から24日後のことです。
締切を打倒するのに精一杯でテレビを見ている暇なんてないのです。
などと言いつつ、男子フィギュアスケート上位3選手のフリー演技ノーカット動画はインターネット上で拝見しました。テレビがなくても五輪競技が、しかもノーカットで見られるこの時代。いやはや、何れの御方も華麗流麗な演技、眼福でありました。有難うございますという言葉が自然に口から出たものであります。
私はトリノ五輪以来の俄かファンでしかないのですが、フィギュアスケートが好きでよくテレビ観戦します。俄かではありますが、それでも年若い選手たちは、たとえ天賦の才能の持ち主であっても常人離れした訓練・努力を重ねていて、その過程があってようやく栄光を勝ち得るのだということを、その道程が険しく厳しいものであることを知っています。私や私の隣人たちでは到底辿りつけない境地に選手たちは到達しているのです。
ですから平昌での男子フィギュアスケート選手たちの活躍に「怪我で大変だというのに、ゆづがんばったよね」、「あんなに小さかったしょーまがこんなに立派になって……」などと、最早や親戚のおばちゃんのようによろこびを噛み締めたのでした。
殊に羽生結絃選手は右足の怪我というアクシデントもあり、平昌五輪に臨むに当たっては運が悪かったと言えましょう。試合当日も怪我が癒えてはいなかったと聞きます。
しかしそれでもなお、圧倒的な演技で羽生選手は金メダルを獲得しました。
狭い範囲の話で恐縮ですが、フィギュアスケートに特に興味を持たない或る知人は、その気もなく偶然フリープログラムの羽生選手の「SEIMEI」を見て、あまりのすばらしさに自然に涙が出てきたのだという話を私にしてくれました。言わば「通りすがりの人」の心までをも動かす演技だったのです。
怪我という不運は確かにあったのですが、それをなきに等しいところにまで羽生選手は自身を調整して、最善の演技によって最良の結果を得たということなのでしょう。
思い返せば羽生選手は、ソチ五輪のときも演技前の6分間練習で他国の選手と衝突して、頭部に怪我を負うという不運に見舞われたのでした。流血するほどの怪我を負いながら羽生選手は試合に参加し、それでも金メダルを勝ち取ったのだということを、記憶している人も多いかと思います。
運のよし悪しは、誰にもあるものです。練習を積み重ねて体調や環境も整えてベストの状態で試合に臨んでも、運が悪かったために最善の結果が出せない選手も、フィギュアスケートに限らずいるでしょう。しかし、桁外れの選手というのは、そういった運の悪さを帳消しにすることさえ、やってしまうのですね。
それに引き換え、まったくの凡人である私などは、この世に生まれ落ちるという不運をいまだに克服できておりませんし、遅筆に生まれてしまうという不運も何とかできずにいて、ひーひー悲鳴を上げながら馬車馬のように働く毎日を過ごしております。また、よろしくないことに、本人は「馬車馬のように働いている」つもりなのですが、傍目にはそのようには映らないのです。筆が碌に動いておりませんのでね。
泣きたくなることも間々ありますが、遅筆は泣いても治らない。遅いながらにがんばるしかないのです。
さて、これは推測ではありますが、おそらく羽生選手をはじめ、すぐれたアスリートは前段の私のように「不運を呪う」ということをしないのではないでしょうか。呪っている暇があったら技術と努力で克服してしまうのだと思われます。
すぐれたアスリートというのは既に凡人ではありませんから、凡人の私がそのまま真似しようとしたら怪我等大変なめに遭ってしまうのでしょうけれども、すぐれた人たちのすぐれた部分を見習って可能な範囲で取り入れて、自分というものを改善していきたいと思います。
という殊勝なことは、五輪のたびに思っています。思ってはいます。思ってはいるんです。
追記:
よい結果が残ったとはいえ、ソチ五輪の衝突事故の後、羽生選手が試合を棄権しないという選択をしたのは、よい選択ではなかったと私は考えています。
衝突して倒れた後、羽生選手は起き上がるどころか、暫く身体の一部を動かすことさえありませんでした。できなかったのでしょう。それだけ大きな衝撃を身体に受けて、しかも頭部に怪我を負っていました。直ぐに入院するべき状況です。
羽生選手は好成績を残し、現在も衝突事故による影響が残ることなく活躍されているので結果としてはよかったのですが、頭部の怪我は何らかの障碍が残ることが多いので、羽生選手でない人は頭部に衝撃を受けたときは「ゆづだってがんばったんだから自分も!」なんてことは考えないように、お願いしたいです。
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VOL.4 一般書で知るセクシュアルマイノリティ−古典編(1)
VOL.5 一般書で知るセクシュアルマイノリティ−古典編(2)
VOL.6 一般書で知るセクシュアルマイノリティ−古典編(3)
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■衛澤 創(えざわ・そう)
和歌山市出身。文筆家。随筆・小説を主に書くが特に分野にはこだわらず頼まれたものを書く。
性同一性障碍者。足掛け15年かかって性別適合手術をすべて終え、その一方で性的少数者の自助グループに関わって相談業務などを行う。
性同一性障碍であると同時にゲイでもあり、「三条裕」名義でゲイ小説を書くこともある。
個人サイトに性別適合手術の経験談を掲載しているので、興味がある方はどうぞ(メニューの「記録」から)。
個人サイト「オフィス・エス」http://officees.webcrow.jp/