Vol.14 猥褻は蔑まれるべきか(前編)

 

 純チョコレートよりも準チョコレートが好きな衛澤です御機嫌よう。安もの大好き。

 

 さて、6月となりました。
 6月10日は「時の記念日」です。これは日本書紀に我が国ではじめての時計が鐘を打ったと書かれているのが、現代の暦で6月10日であることから定められたとのことですが、「時間を大事にしましょう」という日なのではないのだそうです。

「時間をきちんと守り、生活の改善・合理化を図ろう」と呼びかける日なのだそうで、不規則な生活で健康を損ないそうなみなさんはこの日をきっかけに、生活の改善を図りましょう。
 と、私も他人さまに申し上げている場合ではございません。仕事に追いまわされて昼夜が曖昧な(逆転まで行かない)生活中であります。

 おかげさまで、追われて逃げ切れなさそうなほど、沢山仕事をさせて頂いております。私の仕事の中には「小説を書く」というものもあります。そしてここ20年の間で私の収入の半分近くを占めたのは、衛澤の名ではなく別名義で書いた小説です。

 この小説は年令制限が必要な、成人男性向けのものでした。つまりエロ小説であり、さらに重ねてゲイ男性向けのものでありました。そういった小説を書いて原稿料を頂くことに私は何ら呵責はありませんし、それを感じねばならぬ理由もないものと思っています。

 しかし、世の中には「エロ」に関わる仕事を卑しいもの、程度の低いものと見なして蔑む人が、少なくないようです。一方、純文学は高尚なものとする人の、何と多いことでしょう。しかしこの両者が同一の人の手になるものである場合が、決して少なくありません。

 エロを扱うものを卑しいとし純文学を高尚とする人に出会うと、私はいつも思うのです。この人は川上宗薫先生や宇能鴻一郎先生をご存知でないのだろうかと。ご存知であるなら、両先生をどのように思っているのかと。

 川上・宇能両先生は、言わずと知れたエロ小説=官能小説の大家です。川上先生も宇能先生も、もともとは純文学を書いていらっしゃいました。
 川上先生は受賞はならなかったものの、純文学の秀れた新人に与えられる芥川賞の候補に5回も上がっています。
 宇能先生は「鯨神」で第46回芥川賞を受賞なさり、「鯨神」は映画化されています。太宰治がほしくてほしくて貰えなかった芥川賞を、宇能先生は貰っているのです。また、官能小説に転向なさってからも「嵯峨島昭」名義で推理小説を書いていらっしゃいますし、2014年には再び純文学たる「夢十夜」なる作品を上梓されています。

 小説に貴賤はないのです。純文学を書く一方で同じ人がエロ小説を書くこともあるし、その逆もまた同様にあるのです。同じ手から生み出されるものに上下があるものでしょうか。
 書くことの労力は両者で大きくは変わりません。むしろ、エロ小説の方が難しいと言えます。

 エロ小説を読んだことがない人、或るいは読んだことがあっても書いたことがない人はご存知ないことではありましょうが、エロ小説とそれ以外の小説とは、書くときの作法が違います。作法というのは筆の持ち方とかそういったことではなく、お話の組み立て方や用いる言葉の運用法などです。

 エロ小説にはほかの分野にはない制約があります。必ず性描写をしなければならないのは勿論のことですが、それは必ず扇情的でなくてはなりませんし、1作に1回程度ではなく、割りと頻繁に性描写を必要とするシーンを入れなければなりません。つまり、それが当然である物語をつくらねばならないのです。性描写もことの運びがパターン化してはならず、ヴァラエティに富ませる工夫が必要です。

 更には、これがエロ小説には特徴的なのですが、うつくしい文章を書いてはいけません。あまりにうつくしい、整いすぎた文章を書くと、読んでいる人の昂奮を妨げてしまいがちです。冷めてしまうんですね。多少、下卑た文章を書いた方が「使える」エロ小説になり得ます。書き表す内容だけでなく、文体自体も扇情的なものにする必要がある訳です。
 先程「使える」と申しましたが、エロ小説とは読むだけでなく実用性をも求められるものでもあります。「読んでおもしろい」以上の機能がエロ小説には必要なのですね。

 エロ小説を書くという行為には、それ以外の小説を書く技術に加えて前述の技術も必要になります。つまり、一般の小説を書く能力があって、その上にエロ小説に独特の技術を身につけないと書けない訳です。
 智識・技術がなくても、似たものは書けます。しかし智識・技術を持たない人が書いたそれは「似たもの」であって、「エロ小説」にはなっていないことがほとんどです。

 考えてみますと、智識も技術もより多く必要であって、仕事としては大きく変わらない内容なのに、純文学が貴ばれてエロ小説が蔑まれるのは、仕事の内容によるのではなく、もしかするとエロ小説が「猥褻だから」なのかもしれません。

 では、次回は「猥褻である」とは如何なることなのか、エロは蔑まれて然りなのか、考えてみましょう。
(次回につづく)

——————————-

Vol.1 はじめまして!

Vol.2 今回はちょっと長めに「わかやま愛ダホ!」

VOL.3 子宮の中の……?

VOL.4 一般書で知るセクシュアルマイノリティ−古典編(1)

VOL.5 一般書で知るセクシュアルマイノリティ−古典編(2)

VOL.6 一般書で知るセクシュアルマイノリティ−古典編(3)

VOL.7 話しに参ります 

Vol.8 人権と愛と年越し

Vol.9 「誰もが」愉しい?

Vol.10 冬の日に毛の話を。

Vol.11 強く推したい勧めたい

Vol.12 時代の歌にleft alone(前編)

Vol.13 時代の歌にleft alone(後編)

——————————————

■衛澤 創(えざわ・そう)
和歌山市出身。文筆家。随筆・小説を主に書くが特に分野にはこだわらず頼まれたものを書く。
性同一性障碍者。足掛け15年かかって性別適合手術をすべて終え、その一方で性的少数者の自助グループに関わって相談業務などを行う。
性同一性障碍であると同時にゲイでもあり、「三条裕」名義でゲイ小説を書くこともある。
個人サイトに性別適合手術の経験談を掲載しているので、興味がある方はどうぞ(メニューの「記録」から)。
個人サイト「オフィス・エス」http://officees.webcrow.jp/