Vol.13 時代の歌にleft alone(後編)
同級の友人たちとの会話の中に「血糖値」だとか「血圧」だとかの単語が当然のように混じるようになってきた衛澤です御機嫌よう。
新緑の頃。みなさん気怠くなっておられませんでしょうか。緑萌える活気ある季節なのに気持ちが怠くなるのは何故なのん?
と思ってらっしゃる方も多いかもしれませんが、葉っぱの色が変わる頃というのは心身両面の変調が出やすいのですよ。春先も、秋口もそうですね。理由を求めても気怠さはおそらくなくならないので、そういうときは眠っては如何でしょうか。しんどいときは寝るに限ります。眠れよい子よ。
さて、先月の続きをお話しましょう。先月はMP3プレイヤのお話をしました。単車に乗るときにはMP3プレイヤで音楽を聴いています、というお話です。LPで20枚分は入るプレイヤです。LPとは大きいレコード盤で、両面で10曲程度入っているものでしたね。
そのプレイヤに入れているプレイリストはどんなものかと言いますと、概ね2000年代で時が止まっております。それ以降の曲がまったくない訳ではないのですが、テレビの音楽番組も近年はごく少なくなってしまいましたし、テレビもほとんど見なくなって久しい。そのため新しい曲に触れる機会がとても少なく、私のプレイリストに新しい曲が追加される機会も稀れになってしまったのです。
それに、この頃は新しい曲を聴いても「これ、いい曲だな」と思うことがほとんどありません。
いまどきの音楽が訴求力に欠けるのか、私が年を取って新しい音楽を受け容れる感性を失ってしまったのか、それは判りません。とにかく新しい音楽を耳にしても体内に入ってこないのです。流れてくる音は身体の表面を上すべりするばかりで、鈍重な私を動かすだけの力を発揮することがありません。
そういった訳で、私のプレイリストには新しい曲が増えない日が続いています。
旧い音楽はむしろ、私に大きく影響してきます。数十年も前の曲を無性に聴きたくなったり、幼い頃に聴いた歌謡曲を突然思い出して音源を探してみたり。以前聞いたときは特に何も思わなかったけれど、いま聴いてみたらとても好きな感じだったり、ということもあります。
「あの頃はよかった」というようなことは、決して思いません。よく「人生をやり直せるとしたらいつに戻りたいですか」とか「一番愉しかった時代はいつですか」という質問を聞くことがありますが、私は何処にも戻りたいとは思いませんし、いまが一番愉しいです。
だから懐古の情で旧い音楽を指向しているのではないのです。いまが一番愉しいのだからいまの音楽を愉しく感じてもいいのに、と私自身が思っています。
新しくていい音楽を、私が知らないだけなのでしょうか。新しくていい音楽を見つけられるだけのアンテナを張ることができていないのでしょうか。新しいものを受け容れることができないほど私の心は凝り固まっているのでしょうか。そういうことを考えて、ときどき不安になります。
一方、私は昭和中期の生まれなのですが、その頃やそれ以前の曲にとてもしみじみと感じ入ることが多くなりました。太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」(1975)だとかキャンディーズの「やさしい悪魔」(1977)だとか、こういった幼い頃に聴いた曲は勿論、ヘドバとダビデの「ナオミの夢」(1971)なんて私がまだ1歳、ものごころもついていない頃の曲なんですが、何故か聴きたくなって聴いてみたらばすんなり身体の中に入ってきたので、現在私のプレイリストに入っております。
現在の私のプレイリストで最も旧い曲は東海林太郎さんの「国境の町」(1934)、その次が美空ひばりさんの「悲しき口笛」(1949)です。最も新しい曲はAIさんの「みんながみんな英雄」(2015)です。あ、この間めずらしく流行に乗って星野源さんの「恋」(2016)を入れたのでした。でももう昨年の曲なんですね。ジャネーの法則によるところなのか、ほんとうに時間が過ぎるのは早いです。
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VOL.4 一般書で知るセクシュアルマイノリティ−古典編(1)
VOL.5 一般書で知るセクシュアルマイノリティ−古典編(2)
VOL.6 一般書で知るセクシュアルマイノリティ−古典編(3)
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■衛澤 創(えざわ・そう)
和歌山市出身。文筆家。随筆・小説を主に書くが特に分野にはこだわらず頼まれたものを書く。
性同一性障碍者。足掛け15年かかって性別適合手術をすべて終え、その一方で性的少数者の自助グループに関わって相談業務などを行う。
性同一性障碍であると同時にゲイでもあり、「三条裕」名義でゲイ小説を書くこともある。
個人サイトに性別適合手術の経験談を掲載しているので、興味がある方はどうぞ(メニューの「記録」から)。
個人サイト「オフィス・エス」http://officees.webcrow.jp/