Vol.9 「誰もが」愉しい?
使用PCはマルチタスクなのに自分はシングルタスクでしかものごとを処理できない衛澤です御機嫌よう。
年末年始を如何お過ごしでしたか。故郷へ帰ったり旧友と再会したりなさったでしょうか。おいしいものを食べて飲んで歌ったり踊ったりなさったでしょうか。近年は「歌ったり踊ったり」の際には「カラオケ」が利用されて、誰も彼もが「マイクで歌う」という経験を持っていますね。「カラオケ」という日本発祥の文化は随分広範に行き渡ったものです。
しかし、私は、この「カラオケ」が、大の苦手です。
正確に言うと、「カラオケに連れて行かれて歌うことを強要される」のが苦手なのです。他人さまの前で歌うのが厭なのです。
と言いますのも、私の歌唱はとても他人さまに聞かせることができる水準のものではないからです。十人並みにも歌えないのです。それ故、人前で歌うのが大変苦痛です。
「先天的音楽機能不全」という障碍を、みなさんはご存知でしょうか。
音を聴くということと、発声。そして、リズム・声量・音程の調節及び維持。「歌う」という行為はこれ等を同時に行うということです。大抵の人はこれが就学前教育でのお遊戯などの訓練によってできるようになるのですが、先天的にこれ等の機能が巧く働かない人もいます。そういう人は、並の人の何倍もの訓練を経ないとできるようにならなかったり、幾ら訓練してもできなかったりします。
私はこの障碍を持っています。歌おうと声を出しても、伴奏の音と自分の声の音程が合っていないことは判るのですが、それがどのように合っていないのか、伴奏に対して自分の声が高いのか低いのか、どのように調節すれば合うのかが直感的には判りません。たとえば、いま出している声を高く調節するには喉を収縮させるのか拡げるのか、口蓋を大きく開くのか狭くすればいいのか、判断できません。
それが判ったとしても、自分の身体をどのように動かせばそれが可能なのかが判りません。何処をどう動かせば喉が閉じるのか開くのか、口蓋が大きく開くのか狭くなるのかが判らないし、そのように身体を動かすこともできません。
幾らがんばったところでこれは改善されませんでした。先天的音楽機能不全を抱える人の中には訓練によって改善される人は勿論いますが、私はそうではないようです。まともに歌えないことが判っているから、他人さまの前ではできるだけ歌いたくありません。学生時代の音楽の授業で歌唱テストを受けたときのあの苦痛と言ったら!
それなのに、この障碍を持たない人たちは「誰もが歌うの大好き!」「みんなカラオケ大好き!」と信じて疑わず、私を誘ったりします。「行きたくない」などと言ってはみなさんの興を削ぐと思い、行くだけは行きますが「歌わずに聴くことに徹する」という選択をします。或るいは声援や囃し手をさせて頂きます。しかしそこでも「歌いなよ」と勧められてしまうのです。
何しろ歌うのは苦痛なので、流石にそこでは「歌いたくない」と意思表示しますが、何故か「遠慮」と受け取られてしまってさらに勧められたりします。そこまでされてしまうと、みなさんの興を削ぐことになっても一人帰っておくべきだったか、などと思ったりします。
「下手でも誰も気にしないよ」などとも言われますが、私自身が気にするのです。「気にしなくていいよ」と言われても気になるのです。自分の歌が理に適っていないことは重々判っているのです。それを他人さまに聞かせるのが厭で厭で仕方がないのです。
誘ったりすすめてくださる人が何ら悪意なく、まったく善意で以てそうしてくださるのだということは承知しております。それ故に暴言悪態も憚られ、一人苦渋を飲み下すしかなかったりします。
歌うのが愉しくない人もこの世にはいるんだよう。みんながみんなカラオケ大好きとか思うなよう。
胃の腑の辺りで何やらもったりしたものがぶくぶく泡立つように、そんなことを思ったりします。
「先天的音楽機能不全」とは、簡単に言うと「音痴」のことです。
なーんだ、と思った人もおられるでしょう。しかしこれは、「生存」に関わらないというだけで、身体機能の障碍であることに変わりありません。生存に関わらないために障碍であるとは多くの人は思ってはおらず、随分簡単に考えているようですが、この障碍のために苦痛を感じ苦悩している、生きづらさを感じている人は(私のほかにも)確かにいるのです。
見た目では判らない障碍は、生存に関わることがない障碍は、沢山あります。況や、見た目に判らず、さらに生存に関わる障碍をや。
自分が愉しいと思っていることが、誰もが愉しいはずと思っていることが、誰かの苦痛になっていることは、あるのです。自分の当然が誰かを苦しめることは、あるのです。
血色のいいおじさんが電車の優先座席にすわっていることに憤りを見せる人がいます。しかしそのおじさんは高血圧症を患っていて顔に赤みがさしているのであって、すごく体調が悪いのかもしれません。
同様に、若くてスリムな女性がすわっていて文句を言われていることもあります。でもその女性は、もしかしたら妊娠初期でつわりなどがひどくしんどい妊婦さんなのかもしれません。
「一見して健康な人は優先座席にすわるな」という、或る人にとっての当然が、しんどい人を責めてしまう例です。一見して健康でも身体の内側はとてもしんどい状態であるというのは、間々あることです。
自分の当然が、ほかの人の当然であるとは、限りません。
見ためがその人のすべてを表しているとは、限りません。
誰かに何かをすすめたり、禁止したり。必要な場合は勿論ありますが、自分の当然をこの世の当然と思い込んで誰かを左右しようとするようなことは、しないように気を付けたいところです。そして、「多くの人がそうである」ということと「誰もがそうである」ということは、違うことです。
この世界にはさまざまな部分で「自分とは違う」人が「必ず」存在して、「自分の当然」は「他者の当然」とは違うのだということ。それこそが「当たり前」であって、決して忘れてはならぬことではないでしょうか。
人は一人ひとり違います。だからこそ他者との共通点を見つけたときにうれしいのでしょう。そして、それぞれが違うということ、違いを認め合うということは、大変おもしろいことであります。
同じであることのよろこび、違うことのおもしろさ、何れも大切にしたいですね。
そういった訳で、私と遊ぶことがある人はカラオケに誘ってくだすっても構いませんが、歌うことをすすめてはくださらないようにお願い申し上げます。私はみなさんが愉しそうに歌っているのを見たり聴いたりするだけで愉しいのですから。
VOL.4 一般書で知るセクシュアルマイノリティ−古典編(1)
VOL.5 一般書で知るセクシュアルマイノリティ−古典編(2)
VOL.6 一般書で知るセクシュアルマイノリティ−古典編(3)
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■衛澤 創(えざわ・そう)
和歌山市出身。文筆家。随筆・小説を主に書くが特に分野にはこだわらず頼まれたものを書く。
性同一性障碍者。足掛け15年かかって性別適合手術をすべて終え、その一方で性的少数者の自助グループに関わって相談業務などを行う。
性同一性障碍であると同時にゲイでもあり、「三条裕」名義でゲイ小説を書くこともある。
個人サイトに性別適合手術の経験談を掲載しているので、興味がある方はどうぞ(メニューの「記録」から)。
個人サイト「オフィス・エス」http://officees.webcrow.jp/