「出発は?」「昼食後です」

「出発は?」「昼食後です」

ロビーには出発客の荷物が積まれている。

アッシェンバッハは目ざとくカウンターのホテルマンに聞く。

「あれはだれの荷物だ」「モールズさまのご家族です」タジオ一家だ。

「出発は?」「昼食後です」

なんと、アッシェンバッハは自分の出発も延ばすのです。

彼はよろよろ、すでに感染している。

おぼつかない足取りで砂浜に出る。滞在客は去り、廃墟のような浜辺に、

タジオ一家だけがいる。

デッキチェアに身を横たえた教授の額から汗がこぼれ、汗とともに髪を染めた染料が溶け、黒い筋を滴らせた。

椅子から崩れ落ちた教授に係員が近寄る。タジオ一家のメイドは、気味悪そうに主人と子供たちを遠ざけ、教授の遺体は運びさられる。

 

(「ベニスに死す」)